大阪地方裁判所 昭和43年(わ)1063号 判決 1969年3月04日
被告人 岩村末恵
昭和二四・二・一一生 無職
主文
被告人に対し刑を免除する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は大阪市立梅香中学校を卒業し、約一年間位美津濃株式会社大阪工場の工員として働いたが体が弱いため、そこをやめ、一時近所のマージヤン屋につとめた後、昭和四一年一月頃から喫茶店のウエートレス、同年五月頃からクラブ等のホステスとして働くようになり、昭和四三年一月一八日頃から大阪市東淀川区一三にあるアルサロ「ゴールド」のホステスとなつた。そして、右「ゴールド」で働き出して直ぐ同店の客小池正治(当三八年)と知り合い、同月末頃から肉体関係をもつに至り、その間金銭的な世話もうけながら同棲を約するに至つたものである。
昭和四三年二月二〇日、被告人は小池の誘いに応じ、店を休んで共に午後七時三〇分頃から大阪市内ミナミのバー等三軒を飲み歩いた後、翌二一日午前一時頃同市南区坂町一三番地スナツク「フイニー」へ飲食に赴いた。同所で被告人は、カウンターのいちばん奥の方に席を占めて小池と共に飲食物を注文した後、カウンターの上にあつた電話で前記「ゴールド」のなじみ客に店を休んだことの詫びをいつたのであるが、そのことから小池が気分をこわし、被告人の男関係を嫉妬して荒れ出し、被告人の顔面を数回殴りつけるに至つた。そこで、被告人は、小池の気が鎮まるように数分間店内に設けられている便所へ入つてから席に戻つたのであるが、小池はなおも嫉妬に狂い口ぎたなくののしりながら被告人の顔面や頭部を数回殴りつけ、あやまる被告人に対し、髪の毛をつかんで椅子もろとも引き倒して腹部を足蹴にする等の暴行を加えたので、被告人が「もう出ましよう」といつて店を出ようとすると、「逃げるのか」といつて顔面を殴りつけ被告人の唇が切れて出血するという事態に立ち至つたので、被告人はやむなく便所の中へ逃げ込んだ。ところが、小池はこれを追つかけて、便所の扉を力一杯引つ張つて掛け金をこわして開け、髪の毛をつかんで被告人を引きずり出すや、クーラーやカウンターへ頭を叩きつけ、「家へ帰つたら半殺しにしてやる」等といいながら床へ引き倒して足蹴にする等の暴行を加えたため、被告人は、同店の経営者森行操等に助けを求めたが、誰も助けようとしなかつたため、カウンター上の電話で警察の助けを呼ぼうと一一〇番へ電話しようとしたが、番号を間違えて目的を達せず、小池から「どこへ電話してるのや」といつて後から頭部を殴打され、森行から電話をカウンターの中へかくされてしまつたので、同人に「一一〇番へ電話して」と頼んだが応じてくれなかつた。小池は、更に、猛り狂つて、被告人をクーラーとカウンターの間の狭い所へ押し込み髪の毛をつかんでクーラーへ被告人の頭を力まかせに数回打ちつけた。そこで、被告人は、同日午前一時四〇分頃、余りのことに堪えかね、立腹すると共に、自己の身体を防衛するため、小池が一時身を離したすきに、とつさにカウンターをへだててすぐ右側の調理台の上に置いてあつた刃渡り約一四センチメートルのペテイナイフ(昭和四三年押第七一一号の一)を右手をのばしてつかみとるや、体当りするようにして小池の左下腹部を力一杯突き刺し、因つて同人に対し、深さ約一三・五センチメートルに及ぶ腹部刺創・腸管並びに腸管膜損傷等の重傷を与え、それに基因する腐敗性腹膜炎により同年四月二一日、入院先の同市南区長堀橋筋二丁目一六番地原田外科病院において同人を死亡するに至らせた。
被告人の右の行為は小池の急迫不正の侵害に対する防衛行為ではあるが、防衛の程度をこえたものである。
(証拠の標目)(略)
(弁護人の正当防衛の主張について)
弁護人は被告人の本件行為は正当防衛であると主張するのでこの点について判断する(以下認定する事実はすべて前掲証拠によるものである)。
先づ、侵害の急迫性について。被告人が本件行為に出た際、小池は一時暴行をやめ被告人から一メートル程身を離していたのであるが、判示の通りの執ようで継続的な暴行がこの時点で終了したことを示すものは何もなく、小池が更に暴行を反復するおそれがあつたことは明らかであり、このような状況においては侵害はなお継続中であつて「急迫な侵害」があつたと見るのが相当である。
次に、防衛意思について。被告人が執ように繰り返される小池の理不尽な暴行に立腹したことは勿論であるが、しかし、同時にその暴行から自分の身体をまもるためとつさに本件行為に及んだものであることは、判示被害者との間柄、本件行為に至つた経緯、前後の状況、被告人の言動(犯行後の被告人の行為について付言すると、被告人は一回突き刺しただけで直ぐ手を離してカウンター内に飛び込み救急電話をしようとしている)から十分に推認することができる。正当防衛に必要な防衛の意思とは、自分が急迫不正の侵害にさらされていることを認識し、かつ、それに対応して、その侵害を排除するため加害者に立ち向う旨を意識しておれば足りるのであつて、被告人にこのような認識、意識があつたことは明らかであるというべきであり、被告人が自責の念等から、もつぱら憤激の念のみから反撃行為に出たかのように述べる捜査官に対する自白調書は、必らずしも右の認定の妨げとならない。
最後に、「やむことを得ざるに出た」といえるかどうか、すなわち防衛行為の必要性、相当性について。被告人に他に逃避する方法が殆んど全くなかつたといえることは判示事実から明らかである(付言すると、カウンターと壁の間の間隔は甚だ狭く、被告人は奥の方の椅子に居り、小池は一つ横の入口の方にいて逃げられないようにしていた)。防衛行為としての必要性は十分に認められるところである。しかしながら、被害者小池と被告人とは短期間とはいえ情交関係を続けており、本件の発端もいわば男女間の痴話喧嘩に類するものであること、小池の暴行は執ようで継続的ではあるがいまだそのために顔がはれ唇が切れたに過ぎない程度にとどまつていたこと、を考慮すれば、被告人は一九才の女子に過ぎないとはいいながら、素手の相手に対し、いきなり兇器をもつて下腹部を力一杯突き刺すという致命的打撃を与えた点において、本件は防衛行為としての相当性を逸脱しているもの、つまり防衛の程度をこえたものと考えざるを得ない。従つて、結局、この点において弁護人の主張は採用することができない。
(法令の適用)
被告人の行為は刑法二〇五条一項に該当するところ、本件はいわゆる過剰防衛行為であるから、同法三六条二項を適用し、情状について考えるに、結果は重大であるが、男盛りの土工で被告人より背が高く肥満体のガツチリした体格の持主である被害者が、約三〇分にわたつて乱暴の限りをつくし、その程度もだんだんひどくなるばかりか、助けを求めても三人いた店の者も被害者の気違いじみた勢いにおそれをなして助けず、警察へも連絡してくれず、逃げ場もないといつた状況の下で、うら若く体の弱い女性である被告人が、堪え切れず、やむなく判示のような反撃行為に出たものであつて、その程度が相当性の範囲を逸脱した点については、前記のような状況のもとで興奮と恐怖の余り本件犯行に及んだものであつて、被告人を非難することは、全くとはいえないが殆んど不可能に近いというべきである。その他諸般の事情を考慮して、被告人に対しては刑を免除するのを相当と認め、主文の通り判決する。
(裁判官 古川実 下村幸雄 二宮征治)